映画祭では著名人を見かけることがある。あ、あの人知ってると思っても、ほとんどは声をかけることはなく遠巻きに見ているだけだが、たまたま袖触れあう距離になり話をすることがある。
上映が始まるのをシートに座って待っていると、すみませんと前を通り隣に着席する男性。その風態に見覚えがあるなと思い巡らし、思い切って「四方田犬彦さんですか?」と声をかける。ポケットからくしゃくしゃになったメモの端切れをたくさん取り出し、なぐり書きされた暗号のような文字を読んでいる男性は「はい」と返事をした。我ながらよくわかったなと感心しながら、「ブニュエル本の刊行おめでとうございます」と告げる。「欲しいとは思うものの高くてなかなか」と後になって思うと失礼だったかなという言葉を継ぐと、「1日の食事代を抜けば買えますよ」という返事。ドムドムの440円のハンバーガーで1食を済ませようとしている身分の自分には、7000円の大著を買うには1週間食事を抜かなくてはいけない。これは、ブニュエルがいつまでも食事にありつけないブルジョワを描いた晩年の傑作『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』に掛けた冗談なのだろうか。などと思いながら、自作の上映日程を伝え、ぜひ見に来てくださいと告げる。
場内が暗くなり、スクリーンが照らし出される。すると四方田さんはぐっとシートに沈み込む。やがて視界の端に捉えていた氏の頭が、どんどん沈み込み消えていく。一体どうなっているんだ、と思わずスクリーンから目を離して横を見ると、四方田さんの背中は背もたれではなく座面と密着して、ほぼ寝転んで星空を見上げるような格好になっている。脚から腰までは、前の座席の下に潜り込ませて、背中と頭だけが座面に乗っている。なんという格好だろうか。そして今まで映画を見てきた中で、こんなにもスクリーンから目を離したことがあっただろうか。四方田さん、それは果たして楽な姿勢なのですか?と思わず聞きたくなるほどに目を疑う、超現実的な光景だった。
おかげでその時見た映画が何だったのか、一切記憶にない。夢だったのかもしれない。
映画館の前のベンチで自作の上映までのそわそわした時間を潰していると、隣のベンチに美しい白髪の男性が、若い男性と腰をかける。「足立さん、初めまして」と今回のコンペティションの審査員でもある足立正生さんに声をかける。審査員と話すのは控えた方がいいのかなと思いながらも、聞きたいことがあったので「エリック・ボードレールさんと共作された映画を見ました」と告げ、どうやって作られたのか聞く。
足立さんはその経歴から渡航制限を受けているそうで、好きなように使ってくれとテキストだけをフランスのエリックさんに送り、やりとりを続けたそうだ。「もっとめちゃくちゃにしろよ、と言ったんだけど案外綺麗にまとまった映画になっちゃって」と自分のスタイルを固めるのではなく壊し続ける姿勢に、見習わなきゃなと拝聴していると、何かがやってきてその美しい真っ白な御髪にピタッと止まる。足立さんは「そしたらあいつがタイトルを『醜い男』にしやがってよ〜」と嬉しそうに話しているが、それどころではない。こちらの全意識は、頭に止まったまま動こうとしないその何かに注がれている。
「あの、すみません」と楽しそうに話し続ける足立さんを遮って恐る恐る、「頭に赤とんぼが」とその存在を伝える。話を遮られた足立さんは、立腹するかと思いきや、「何?本当か!?」とさらに楽しそうになり、お付きの若者に今すぐ写真を取れと大喜びしている。スマホの写真を確認して、もっとこっちの角度で取れと若者に指図をしている間も、赤とんぼは微動だにしない。日の丸弁当みたいだなと白髪と赤とんぼのコントラストを見ながら思う。あー、日本の国旗みたいだな、と足立さんの経歴を考えると出来すぎた皮肉を体現しているようで、さすが恐れ入りましたと勝手に感心する。俺じゃなく、足立さんを選んだ赤とんぼも分かってるなと。
やはりスタイルを壊すことを恐れないオープンな姿勢には、思わぬ贈り物が飛び込んでくるんだよなと思い知った邂逅だった。